はじめに
観光都市ヴェネツィアは、オーバーツーリズムによる深刻な課題に直面してきた。安価な大量生産の土産物店やファストフード店が伝統的商店等を駆逐し、都市の個性を失わせる「商業的ジェントリフィケーション」は、そのような課題の一つであり、地域の持続可能性を大きく脅かしている。
こうした事態に対応するため、ヴェネツィアは、一定の商業施設の出店を規制する、通称「反ガラクタ規制」を導入した。本記事では、その背景及び制度的構造を紹介する。
ジェントリフィケーションの概念
ジェントリフィケーション(Gentrification)は、1964年に社会学者ルース・グラスが提起した概念であり、低・中所得層地域に高所得層が流入することで住宅費が上昇し、元の住民が追い出される過程を指している。単に居住構造の変化にとどまらず、文化資本の偏在や商業構造の変化を伴うことが特徴である。
その一類型が「ツーリズム・ジェントリフィケーション(Tourism Gentrification)」である。観光産業が発展する中で、中心市街が観光用不動産、短期賃貸、土産物店に転用される結果、地域住民や地域商店が追い出され、都市空間が観光消費に最適化されていく現象を指している。
ヴェネツィアにおける課題と対策
ヴェネツィア旧市街では、観光客数の急増と地価・賃料の高騰により、職人や伝統的商店が次々と閉店に追い込まれた。その跡地には、国外で大量生産された仮面や雑貨を売る土産物店や、テイクアウト軽食を扱う飲食店が急増し、街並みは観光消費に特化した「一様な土産物街」へと変化しつつある。
この現象は都市の個性を失わせるものであるところ、こうした状況に対抗するため、2019年に試行的に導入され、2025年に恒久化されたのが「反ガラクタ規制」(正式名称は「歴史地区における文化財保護と景観価値向上のための商業規制措置」)である。
「反ガラクタ規制」を支える法体系と権利調整
ヴェネツィアがこうした規制を、完全な独自規制として規定しているわけではなく、背後には、営業の自由(憲法41条)と文化財保護(憲法9条)を調整する法体系がある。
- 文化財・景観法典(D.Lgs. 42/2004)第52条:市町村は、文化財監督局の意見を聴いた上で、歴史的・芸術的・景観的価値を有する区域における商業活動を禁止または制限できると規定している。 憲法41条に基づく「営業の自由」を尊重しつつも、憲法9条に規定される「文化財保護」の必要性と調整するための根拠規定となる。
- 行政手続簡素化法(D.Lgs. 222/2016)第1条4項:文化財・景観法典第52条に規定された目的のために、市町村が文化財監督局の意見を聴いた上で、文化財保護と両立しない業種を禁止・制限できる権限を明記している。
このように、国法が規制権限の枠組みを付与し、市が具体的に適用するという二層構造のもと、営業の自由と文化財保護の調整が制度化されている。
結果として、ヴェネツィアの「反ガラクタ規制」は単なるスローガンではなく、憲法上の権利の調整に裏付けられた実効的な都市政策として機能している。なお、当然に比例原則(目的と手段との間に均衡を要求する原則)や平等原則(合理的な理由なく不平等に扱ってはいけないという原則)の適用はあり、その観点から市の規制が憲法に反するという判断がなされる可能性は存在するが、ヴェネツィアにおける当該規制の制定においては、比例原則や平等原則に関する整理も一定程度なされている。
「反ガラクタ規制」の内容
禁止業種の明示
歴史的中心地区の主要区域において、新規出店が禁止された業種は以下である。
- 食品小売・製造・販売業:軽食店、惣菜店、テイクアウト専門店。ただし青果店、精肉店、鮮魚店、農業生産者直販、伝統的パン屋・菓子屋・ジェラート店は除外。
- 無人店舗:コインランドリー、自動販売機のみの店舗、無人ATMブースなど。
許可・奨励業種
例外的に新規出店を認め、積極的に奨励される業種は以下である。
- 高級ファッション小売
- 書店・古書店
- 美術ギャラリー・骨董品店・装飾・デザイン関連店舗
- アート工芸品販売・修復工房
- 芸術的・伝統的工芸品
既存店舗への制限
禁止業種に該当する既存店舗には閉鎖命令は出されないが、次の義務が課されている。
- 店頭外への派手な陳列(商品吊り下げ等)の禁止
- 景観調和のための改修(照明、看板、外観等)を6か月以内に実施
罰則規定
違反した場合には、即時の営業停止や店舗閉鎖、2,500〜15,000ユーロの罰金が科される。
まとめ
商業的ジェントリフィケーションは、都市の個性を根底から変容させ、住民の生活基盤そのものを脅かす現象である。特に観光都市においては、短期的な観光消費を最大化する方向で商業活動が均質化し、地域に紐づいた伝統的な商店等が衰退する傾向にある。
この現象は、経済的な効率性の観点からは一見合理的に見えるが、観光客が求めるのは大量生産された模倣品ではなく、固有の文化や生活が息づく都市空間であることを踏まえると、長期的には、観光そのものの魅力を低下させ、地域社会の持続可能性を毀損する可能性が高い。したがって、商業的ジェントリフィケーションへの対策は、文化財保護の一環であると同時に、観光政策における「持続可能性の確保」という観点からも不可欠である。
商業的ジェントリフィケーションはヴェネツィアのみにとどまらず、世界各地の観光都市が共通して直面している課題である。ヴェネツィアの「反ガラクタ規制」は、その先駆的事例として、他都市にとっても大いに参考になると思われる。