歴史的建造物を未来に残すには、その活用が不可欠である。しかし活用が「個々の不動産の収益性」という尺度に偏ると、二つの問題が生じる。高収益化できる一部の建物だけが選ばれて残りの多くが解体に追い込まれるという選別の問題、そして残された建物も高級ホテルなど排他的な用途に囲い込まれることで、地域から切り離されてしまうという問題である。
この状況に対し「歴史的資源は税金で支えればよい」という意見もある。だが歴史的建造物はその性質上増え続けるため、すべてを税で守ることは不可能である。日本経済は成長の段階を終え、税収には限界がある以上、税収による保護だけに依存することは現実的でない。
ここで参照すべき国際的枠組みの一つが、2005年に欧州評議会で採択された「社会にとっての文化遺産の価値に関する条約(ファロ条約)」である。同条約は、文化遺産の価値を「現在および将来の人々が自らのアイデンティティや発展にとって意味を見いだす資源」と定義し、経済的収益性や国家の保護だけに頼らず、住民の参加と地域社会の活力を通じて文化遺産を持続的に守ることを提唱している。これは、歴史的建造物を「共有財」として捉え、その保全・活用を地域全体の責務として位置づけ直す考え方であり、現代の日本が直面する課題にも通じる視点である。
本記事の目的は、収益性偏重の限界を指摘するとともに、公共財として税金で保護すべきという単純な批判に対して、別の視点を提示することである。それは、建物を個別資産としてではなく、地域全体の経済・社会・空間の活力を生むものとして捉える「まちづくりにおける価値」という枠組みである。
高級ホテル化という選択の背景
現状、多くの歴史的建造物は市場原理の下で過小評価され、解体されつつある。市場は収益性しか反映せず、歴史的価値や公共性から生じる正の外部性を価格に織り込めないからである。そのため保全が実現するのは、国による公的保護が与えられた場合か、高級ホテル化等によって収益化できる場合という両極端に限られる場合が多い。地域にとっては重要でも、補助金を得るほどの学術的な価値づけがされず、しかも収益化の可能性も乏しい大多数の建物は、解体の危機に晒されている。
歴史的建造物の活用例として、高級ホテル化が選択されるケースが多いのは、偶然ではない。それは、保全活用に伴う莫大なコストと、その回収を求める投資収益率(ROI)という市場原理の結果である。歴史的建造物の改修・再生には、取得費用に加え、歴史的意匠を尊重した修復、建築基準法に適合させるための耐震補強、さらには空調・電気・水道といった快適性確保のための設備更新など、巨額の費用が伴う。これらの初期投資を正当化するには、再生後の資産が高い収益を生み出す必要がある。
ここで高級ホテルという業態が、不動産単体で見れば「最適解」として浮上する。建物固有の魅力や個性を最大限に売り込み、他では得られない体験価値を提供することで、高い宿泊単価の設定が可能となるからである。こうして、①多額の資本投下、②高価格帯ホテルの選択、③富裕層をターゲットとする収益モデル、という一連の構造が成立する。事業の成功はRevPAR(販売可能客室1室あたり収益)やGOP(総営業利益)などの指標で測定され、収益性を維持するための再投資が繰り返される。
しかしこの過程で、歴史的建造物の価値は収益性の観点でのみ評価され、歴史的建造物は「共有されるべき文化資産」から「特定の顧客層に限定されたラグジュアリー商品」へと変質し、ここで冒頭に述べた二重の問題が現実化する。
まちづくりにおける価値
歴史的建造物の真の価値を理解するには、それを単体の不動産として収益性のみで測るのではなく、まち全体に広がる経済的・社会的・空間的な影響の総和として捉える必要がある。
第一に、経済的価値である。歴史的建造物は直接的な収益だけでなく、周辺産業に波及する経済効果を生む。観光客を惹きつける文化資本として機能し、宿泊、飲食、小売など多様な需要を喚起する。さらに、歴史的資源が形成する地域ブランドは、企業誘致や投資の呼び水となり、長期的な雇用創出にもつながる。こうした間接的な効果は、従来の財務分析では十分に捉えられてこなかったが、実際には地域経済の持続性に直結する重要な資産である。
第二に、社会的価値である。歴史的建造物の保全・活用のプロセスは、住民、行政、専門家、事業者が協働する場を生み出し、信頼やネットワークといった「ソーシャルキャピタル」を形成する。これは単に歴史的建造物を守る作業ではなく、地域社会の協調関係を強化する。例えば、歴史的建物を改修した宿泊施設が地元食材や地域工芸を積極的に取り入れると、地域の生産者や職人との新たな関係が構築され、地域経済の内発的な発展につながる。
第三に、空間的価値である。歴史的建造物は、地域が培ってきた独自の歴史と記憶を物理的に体現する存在であり、グローバリゼーションの中で失われがちな「地域の個性」を維持する役割を果たす。均質化が進む都市景観において、歴史的建造物は唯一無二のランドマークとなり、住民に誇りや愛着を与えると同時に、観光客に地域固有の魅力を伝える。空間的なアイデンティティの維持は、地域のブランド形成だけでなく、持続可能な観光戦略や居住環境の質にも直結する。
このように「まちづくりにおける価値」とは、単一の指標に還元できないものであり、歴史的建造物を地域のインフラとして位置づけ直す視点を与える。それは短期的収益の最大化を超えて、地域社会の持続可能性と地域の文化的多様性を確保するための、新しい評価基準である。
国家保護・市場原理だけに頼らない政策的枠組み
歴史的建造物の保全活用を持続的に実現するためには、市場の論理と国家の保護という両極端だけに依存していては限界がある。市場原理は収益性の高い建物の活用に偏り、国家保護は限られた税財源を背景にごく一部の「文化財的傑作」の保全に集中せざるを得ない。結果として、大多数の歴史的建造物はこの二つの狭間に取り残され、解体の危機に直面している。
公的機関は長期的な公益性を担保し、民間は効率性を持ち込み、地域社会は地域の情熱と暗黙知を提供する。三者が相互補完的に作用することで、歴史的建造物は「補助金で延命させる対象」や「ラグジュアリー化による収益源」といった二者択一から解放され、持続可能な地域資産として再定義されるのではないか。
