地域体験を贈る仕組み:エンガディンのギフト券制度「Engadin Gutschein」

スイス・エンガディン地方では、観光局が主体となり「Engadin Gutschein(エンガディン・ギフト券)」を展開している。これは宿泊施設、レストラン、アクティビティ、山岳鉄道、小売店など地域全体で利用可能な共通バウチャーである。公式オンラインショップから購入でき、金額やデザインを自由に設定できる。PDFで即時発行できるほか、郵送も可能であり、単なる商品券ではなく「エンガディンの体験を贈る仕組み」として機能している。

実際のギフト券は以下のように発行される。公式オンラインショップから金額を選び、贈り手・受け手の名前やメッセージを入力すると、すぐにPDF形式で出力できる。券面には「Upper Engadin and St. Moritz」の風景写真が添えられ、地域全体のブランドを象徴するデザインとなっている。

観光局のねらい

この制度を観光局が導入した狙いは、地域全体での観光消費を強化し、観光を「贈答市場」にまで拡張することにある。具体的には、次のような意図がある。

  • 消費の域外流出抑制:旅行者が利用する資金を地域内で循環させる
  • 認知・ブランド強化:Engadin を「贈る価値のある地域」として印象づける
  • 地域間連携と回遊促進:共通ギフト券を通じて複数の施設を訪れる動線を生む
  • 運営負担の軽減:観光局がプラットフォームを一元管理することで加盟店の負担を抑える

無論、明示的には言及されていないものの、データ収集によるマーケティングの高度化という潜在的な目的もあるだろう。決済データは、どの地域のどのカテゴリーの事業者で、いつ、どれくらいの金額が消費されたかという貴重な情報源となる。

観光客にとってのメリット

この制度は、贈る側と受け取る側双方にメリットをもたらす。

  • 自由度の高さ:宿泊、食事、スパ、スキー、山岳鉄道など多彩な体験の中から自由に選べる
  • 利便性:オンラインで購入し、即時にPDF発行可能(郵送も選択可)
  • 部分利用可能:1枚のギフト券を複数施設で分けて利用できる
  • パーソナライズ性:贈り手と受け手の名前やメッセージを添えられる

贈り手は地域住民、域外在住者、企業など多様である。地域住民は誕生日やクリスマスなどで活用し、身近な人に地元の魅力を再発見させる。域外在住者は、旅行予定の家族や友人に「現地での自由な体験資金」として贈る。企業は従業員や取引先へのインセンティブや贈答品として用い、記憶に残る贈り物を提供する。

事業者にとってのメリット

この制度は加盟事業者にとっても利点は大きい。観光局の案内によれば、加盟店はギフト券の受け入れに際して手数料を支払う必要がない。また、精算プロセスが自動化されており、事業者が受け入れたギフト券の代金は、毎月自動的に集計され、エンガディン観光局から事業者の口座へ振り込まれる。このようにギフト券管理は観光局のシステムで完結するため、事務負担は大幅に軽減される。

加えて、公式「Experience Shop」へ体験商品が掲載されることで、追加の露出・集客効果をもたらす。結果として、事務的な手間や費用を不要としながら新規顧客獲得やブランド強化といった多面的な利得を事業者にもたらす。

「体験を贈る」という潮流

エンガディン地域内では、観光局の共通制度に加えて、個別のホテルやレストランも独自のギフト券を展開している。たとえば Hotel Muottas Muragl では「ロマンチックな滞在」を贈る宿泊バウチャーが販売されており(muottasmuragl.ch)、Hotel Chesa Rosatsch では宿泊やレストラン利用に使えるギフト券が提供されている(rosatsch.ch)。このように、観光局主導の共通バウチャーと、各施設の独自ギフトが並行して広がっている点は、エンガディンにおいて「体験を贈る」という文化が根付きつつあることを示している。

観光体験をギフトとする動きは、欧州全体でも広がっているように見受けられる。旅行体験プラットフォームの TingglyWonderboxは、宿泊や体験を自由に選べるギフトボックスを展開し、「モノではなく記憶を贈る」という新しい贈答文化を確立しつつある。都市観光でもプラハのガイドツアーギフト券のように、地域体験を直接贈れる仕組みが浸透してきている。背景には、物質的贈答の飽和、デジタル化による手軽な発行、旅行・ウェルネス志向の高まりなどがある。

高級山岳リゾートだからこそ活きる仕組み

この制度が特に効果を発揮するのは、高級山岳リゾートという文脈もある。第一に、顧客層は高価格帯サービスを許容できるため、ギフト券が「特別感ある贈答」として機能しやすい。第二に、スキーやトレッキング、山岳鉄道、スパといった体験資源の多様性が、利用者の自由度を高める。第三に、ギフト券がオフピーク期の利用を促すことで、季節変動の緩和に寄与する。第四に、「上質」「非日常」というブランドイメージと親和性が高く、地域全体の価値を一層強化できる。

さらに、高単価な山岳リゾートにはロイヤル顧客の存在がある。別荘やコンドミニアムを所有する富裕層が、自らの滞在時に知人や家族を招待する際、「地域を自由に楽しんでもらう」手段としてギフト券を渡すことが考えられる。これはホストとしての品位を示すと同時に、愛着ある地域を紹介する行為ともなり、結果的に新たな来訪者を呼び込むネットワーク効果を生み出す。都市型観光地では成立しにくい、この独自のダイナミクスが、高級リゾートにおけるギフト制度の真価とも言える。

体験を贈り、地域を磨く

「Engadin Gutschein」は、贈り手にとっては体験を贈る手段、受け手にとっては地域を楽しむきっかけ、事業者にとっては低コストで顧客を獲得できる仕組みである。そして欧州全体で進む「体験ギフト」の潮流を背景に、高級山岳リゾートにおけるブランド価値とロイヤル顧客の存在が、この制度を一層強固なものにしている。

すなわち、この制度は単なる商品券ではなく、「地域体験を贈る仕組み」そのものである。観光局が主導して地域の体験をギフト化することは、観光消費を拡張し、地域ブランドを磨き上げ、持続可能な観光戦略を実現する道を示している。エンガディンの事例は、観光地がいかにして「贈る」という行為を地域戦略に取り込み得るかを示す先行事例であり、日本を含む他地域にとっても学ぶべき示唆を多く含んでいる。

本コラム投稿者

江﨑 貴昭
EZAKI Takaaki

千葉県出身。理系の観光学科を修了後、旅行・観光専門のシンクタンクの研究員として、様々な地域における観光・まちづくりの調査や計画づくり等に従事。霞が関(観光庁)での勤務経験を持つ。
researchmap